しかし、聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。
「―――かお・・・・・」
「―――・・・・?」
何のことを言っているのか分からず、司は顔を上げて姫宮の方を見た。
すると、姫宮は唐突にすっくと立ち上がり、凄い勢いで洗面所の方に駆け込んで行った。
「・・・!?」
―――なに・・・?吐くほど、嫌だったのかよ・・・・・
司はショックと絶望のあまり目の前が真っ暗になった。
―――もう・・・死にたくなってきた・・・・・
じんわりと瞼が熱くなり、次から次へと、とめどなく涙が出てくるのを司は押さえることができなかった。
「―――司・・・」
突然自分を呼ぶ声が聞こえ、司は目を開けた。涙で滲んだ視界に、姫宮の顔が映った。
冷たいものが頬に押し付けられ、司は初めて自分の頬が腫れて熱をもっていることに気が付いた。口の中も切れて血の味がした・・・。考えてみれば、あれだけ強烈な一発を食らえば当たり前のことである。
「ほら。これで、ちゃんと冷やして・・・・」
思いもかけないような、優しい姫宮の口調・・・。司は、これは夢ではないかと疑った。
でも、この冷たいタオルの感触は間違いなく本物だ。
「―――うん・・・・」
司が答えると、姫宮は横を向いて司の隣に腰を下ろした。
「―――司、おまえ・・・ふざけてんのか?」
「―――・・・・・」
―――ふざけてる・・・?キスのことか・・・・?
司は咄嗟に何も言えず、黙り込んだ。
おふざけや冗談で、こんなに痛い目に遭うのではとんでもなく割りが合わないだろうが・・・・。
そう思ったが、本気だと言ったところで、引かれるだけなのは分かっていたので、やっぱり黙っていた。
黙っている司をどう解釈したのかは分からないが、姫宮が先に口を開いた。
「―――ごめん・・・。イキナリだったから、力の加減が・・・・」
「―――・・・・」
司は驚いた。
何故、姫宮の方が謝るのか―――。
何故、罵倒して、怒らないのか―――。
殴られて当然のことをしたのは自分の方なのに・・・・・。
すると、さらに姫宮は意外なことを口にした。
「―――どうしよう・・・・。明日の撮影・・・・・」
心底途方に暮れたように呟く。
―――そうだった・・・・・
痛みならいくらでも我慢できるが、鬱血して痣になった頬はどうやって隠せばいいのか。たった一晩でこの腫れがきれいに引くとも考えられなかった・・・・。
それにしても、この状況で何故司に怒るよりも、真っ先に撮影の心配をするのかが司には分からない。
しかし、言われてみれば確かに私的な都合で撮影を遅らせるようなことは、プロとして絶対に許されないことだった。
「・・・・メイクで、なんとかなるさ。・・・大丈夫」
そう言うしかなかった。
ここで泣き言を言ったら、姫宮はきっと・・・・負わなくてもいい責任を感じてしまう。
司は口と頬の痛みに耐えながら笑ってみせた。
「俺を、誰だと思ってるんだ?これくらい屁でもねえよ・・・」
司の精一杯の強がりを見抜いているのか、いないのか・・・・姫宮は、小さく頷くと、元の姫宮に戻ったように「失礼します」と礼儀正しくお辞儀をして、部屋を出て行った。
あとに取り残された司は、まるで狐につままれた気分で、いつまでも茫然としていた。
いつも我儘放題の司ではあったが、仕事に対しての厳しさだけは子役の頃から父親からイヤというほど叩き込まれている―――。
しかし、今回ばかりはさすがに不可抗力だった。
司は翌日、何事もなかったかのような顔をして撮影現場に臨んだものの、顔の腫れを早々に監督に指摘され、ダメだしを食らった。
普段は司に甘い監督も、さすがに声を荒くした。
「なにやってんだ?おまえは・・・こんな時にそんな怪我なんかしやがって・・・」
「―――・・・すみません・・・」
「仕方ねえなあ・・・。今日の予定は大幅変更だ、お前、皆に謝っとけよ!」
監督に散々怒られながら、司は返す言葉もなく悄然とうな垂れていた。
俳優としてのプライドも、淡い初恋も―――全て粉々に砕け散った気分だった・・・。
演技さえできれば、まだ演技に集中することで、姫宮のことを忘れることが出来るだろうに、それさえも奪われた司の心には、ただ虚しい嵐が吹き荒れていた。
どれほど忘れたくても、考えまいとしても、結局思いの行き着く先は、姫宮のこと意外にありはしない・・・。
あれだけはっきり「嫌い」と言われてしまっては、司には手の打ちようがない。
究極の片思い―――・・・。
相手は男で、腹違いの兄で、しかも司を憎んでいる・・・・。
どうかんがえても、こんな恋が成就などするわけがない・・・。
これだけマイナス要因が完璧に揃っている片思いも、なかなか世の中にあるものじゃない・・・と皮肉な気分で思う。
―――ちょっと唇が触れたくらいで、オレは数メートルもぶっ飛ばされた・・・。
あの華奢な身体で、まさかそんなゴリラみたいな馬鹿力を隠し持っているとは、誰にも想像できないだろう。
―――しかも、兄・・・・・兄だと?・・・冗談キツイぜ・・・
半分とはいえ、血がつながってるとは、司にはやはりどう考えても実感として湧いてはこなかった。
大体、顔だって似てはいないし、あんな人並みはずれた運動神経や馬鹿力はどう逆立ちしても司にはない。
いっそ潔く忘れてしまえ・・・そう思う。――けれど、そう思えば思うほど会いたくて胸が締め付けられるほど苦しくなる。
―――オレは、マジでイカれてしまった・・・・
to be continued....